その時私は11歳。小学六年の11月。
長男である兄が、肺炎をこじらせ、入院していた。
兄は生まれつき体が不自由で、そのうえ不運にも療養していた施設で事故にあい全身が不自由になってしまっていた。毎冬、兄は肺炎で入院し、毎年次の年の桜が見られるかどうか分からなかった。

その日、両親の自営業が忙しく、どうしても母が付き添いにいけないからと、私一人、夕方タクシーで病院に向かった。

話を聞いて同情してくれたのか、無口なタクシーの運転手さんはおいしいチェルシーの飴を3つもくれた。

あめを大事にポケットにいれ、病室に向かうと、苦しそうに熱にうなだれた兄の声が廊下に聞こえてくる。兄は熱で朦朧としてはいたが、時々私を見ては、助けてほしいと言わんばかりに辛そうな視線を向けていた。兄は言葉が話せなかったが、私には兄の思っていることはいつも分かっていたと思う。

その夜は、兄の熱にうなだれた声のすごさに、兄が今にでも死んでしまうのではないかと思い、一人でベッドの傍にいるのが怖くて仕方がなかった。私にできるのは額のタオルを時々交換し、点滴が終わったと看護婦さんに言うくらい。小学生の私には、自分の無知と無力さが途方もなく恐ろしいことのように思えた。私が一人で看取ってはいけないような気がした。

午後9時になり、公衆電話で自宅に電話をする。まだ来られないのか?兄ちゃんが死にそうだ。怖いから早くきて、と母につぶやく。

それからどれくらいたったのか覚えていないが、母は消灯を過ぎた病棟に、私の大好きな鍋焼きうどんを買って来てくれた。静かになった薄暗い病棟で鍋焼きうどんを作り、私は母とともに黙々とその温かいうどんを食べた。兄のことが心配で、大好きなはずのうどんがなかなかのどを通らなかったのを覚えている。

死にかけている自分の息子のそばに一番いたいのは母だっただろうと思う。そんなときにまで仕事をしなくてはならない状況とは、私には想像もつかないが、家族が生活をしていくには働かざるを得なかったのだろう。

その数日後、兄は危篤となり、父が小学校へ私を迎えにきて病院へ向かった。
母が、私は将来看護婦になりたいと思っているからとスタッフにお願いし、皆が病室を出る中、私だけ病室にとどまり処置をずっと見守らせてもらった。兄は、挿管時の麻酔をしたきり、二度と意識を戻すことはなかった。心電図モニターには、明らかに動きはないのだか、医療スタッフが蘇生術をしている姿を見ながら、もしかしたらまた心臓は動き出すのではないかといつまでも、いつまでも思っていたのを覚えている。

兄の死は、その後なかなか実感できず、何年もたってからよく、夜、布団の中で思い出し泣いていた。

あれから10年近くたってから、看護師としてその病院に勤めることとなり、一人でも多くのひとを助けたいと頑張った。死に行く人を見守ると言うのはとても孤独なことだから、見守る家族を一緒に支えてあげたいと思った。

今はもうその病院では働いていないが、今でも、どこかに一人で寂しく辛い思いをしている人がいるならば、行ってその人のそばにいてあげたいと思う。そう思えるのも、機会があればそういう人を助けてあげられるのも、亡くなった兄のおかげだと思う。

私も辛くなることはあっても、あの夜の孤独感に比べたら、なんともないと思える。兄が残してくれたもの、大切にして行こう。







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